リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

 役場係長が胃薬を飲む回数には、季節性がある。 年度末に増えるのは当然として、もう一つ、はっきり増える時期がある。 ——補助金の公募が出たときだ。  それも、題名がカタカナだらけのやつ。 「インバウンド」「レジリエンス」「スマートツーリズム」「データドリブン」。  読むだけで胃が重くなる。読むと責任が生まれる。責任が生まれると胃が荒れる。係長の胃は、ほぼ行政でできていた。

 祭りが終わって一週間。 観光防災センターの看板灯だけが、まだ祭りの余韻みたいに光っていた頃——

 役場係長は島田幸夫の事務所に電話をかけた。 「先生……また来ました……」 島田は即答した。 「いいですね」  係長が泣きそうになる。 「よくないです! 県の公募です! 『多言語観光防災DX推進事業』って……何ですかこの名前!」  島田は笑った。 政治家にとって長い題名は祝儀袋みたいなものだ。中身が薄くても、外が立派なら通る。立派なら、みんな安心する。 「係長、落ち着いて。 要するに『外国の人が困らない町』を作りましょう、ってことです」 「そんな短くできるなら、最初から短くしてほしいです……」 「短くすると反対が出ます。長くすると眠くなります。 眠い人は反対しません」  係長が黙った。 黙るのが早いのは、胃が耐えられなくなった証拠だ。

島田、英語を話せないのに多言語の旗を振る  翌日、観光防災センターに「多言語化プロジェクト会議」が設置された。 会議が設置される、というのが政治の怖さだ。机と椅子と資料が並ぶと、だいたい何かが決まる。決まる前に決まっていることも多い。

 集まったのは、いつものメンバー。 * 観光協会会長(拍手の起点) * 旅館組合幹部(滞在時間の信者) * 老舗警備社長(「安全のためです」職人) * NPO代表(善人顔の帳簿魔術師) * 役場係長(胃) * そして今回は、県のアドバイザーとして『コンサル風若者』も来た ──名刺には「グロース」「CX」「KPI」の三文字が輝いている

 最後に島田が入ってきた。遅れても怒られない。 しかも今日は遅れが『演出』になる。主役は遅れて登場した方が拍手が増える。  島田は、いきなり言った。 「皆さん、英語は話せますか?」  一斉に視線が泳いだ。 観光協会会長は笑ってごまかし、旅館組合幹部は咳払いで逃げ、役場係長は胃のあたりを押さえた。  島田は、にこやかに続けた。 「安心してください。私も話せません」  会議室に笑いが起きた。 笑いは『負けの共有』だ。負けを共有すると仲間になる。仲間になると財布が開く。  島田は、ここで一気に空気を取った。 「でも、話せなくても守れます。 守るのは単語じゃなくて、段取りです。 『困らない段取り』があれば、言葉はあとからついてくる」  誰も反対できない。 段取りはいつでも正義の顔ができる。  コンサル風若者が、すかさず口を挟む。 「その通りです。まずはKPI設計からですね」  役場係長が小声で言う。 「先生、KPIって…何ですか」  島田は真顔で答えた。 「気持ちが増えるポイントです」  コンサルが「違います」と言いかけて、飲み込んだ。 ここで訂正すると、空気が硬くなる。硬くなると仕事が増える。コンサルも仕事が増えるのは好きだが、空気が硬いと『嫌われる』。嫌われると次の委託が減る。彼は賢い。

 観光協会会長が、嬉しそうに頷いた。 「なるほど、気持ちが増える…いいですね」 誰も分かっていないが、みんなが分かった気になっている。 島田はそれが大好きだった。 現場の多言語が、地獄の珍英語になる  会議で「多言語化」が決まると、現場は必ずおかしなことになる。 なぜなら、現場は正しくしたいが、正しくすると手間が増えるからだ。 手間が増えると誰かが死ぬ。だいたい胃が死ぬ。今回は係長が死ぬ。  まず作られたのが、多言語看板だった。 センター前の案内板に、堂々と書かれた英語: Please evacuate to the sea. (海へ避難してください)

……逆だ。 海は避難先ではなく、だいたい脅威だ。 係長が真っ青になって島田に報告する。 「先生!海へ避難って書いてあります!!」  島田は落ち着いて言った。 「素晴らしい。インパクトがあります」 「インパクトじゃないです!命に関わります!」  島田は、ここで『悪徳の才能』を発揮する。 ミスを叱らない。叱ると責任が生まれる。責任が生まれると修正の主導権が現場に戻る。主導権は戻してはいけない。  島田は言った。 「係長、これはチャンスです。 『正しい翻訳が必要』という理由ができました」 「最初から必要です!」 「最初から必要だと、予算がつきません。 必要だと証明できると、予算がつきます」 係長の胃が音を立てて崩れた気がした。

 その頃、火種屋YouTuberが動いた。 彼は「珍英語ツアー」という動画を撮り始めたのだ。 「皆さん見てください!『海へ避難!』です! この町、外国人に海へ飛び込めって言ってます!」  再生数は伸びた。 伸びる動画は政治家にとって面倒だ。だが島田は、面倒を利用する才能もある。

 島田は会長に言った。 「動画、伸びてますね。 この勢いを『改善』に変えましょう」  会長が頷く。 改善。これも反対しにくい言葉だ。改善に反対すると「ダメなままでいいの?」になる。

島田の『永続ループ』が完成する  ここからが島田の本番だ。 島田は言った。 「看板は更新が大変です。 でも、スマホなら一瞬です」 コンサル風若者が目を輝かせた。 「アプリですね!」  島田は頷いた。 そう、アプリ。政治家が好きな四文字だ。 アプリは『終わらない』。作って終わりじゃない。更新が必要だ。運用が必要だ。保守が必要だ。  つまり、毎年お金が出る。 NPO代表が、善人顔で言う。 「観光案内と、防災通知を統合したアプリ…いいですね。 迷子情報も、交通規制も…」  旅館組合幹部がすぐ食いつく。 「うちの宿も載せられますか?」  島田がにこやかに答える。 「もちろん。町の魅力ですから」 『町の魅力』という言葉の裏で、島田の頭の中では別の言葉が鳴っていた。 ——スポンサー枠。

 島田は、軽く提案する。 「ただ、運用費がかかります。 だから、アプリ内に『協賛枠』を作りましょう」 協賛。これも反対しにくい。 協賛に反対する人間は「町の応援を拒む人」になる。  コンサルが言った。 「ユーザーデータも取れますね。回遊、滞在、クリック…」

 役場係長が目を丸くする。 「クリック…?」 島田は即答した。 「鈴です」 「え?」 「押されたら鳴る。鳴ったら伸びる。伸びたら成果。成果が出たら次の予算。 これが『困らない町』です」  誰も意味が分からない。 だが島田の口調が良い。声が温かい。 温かい声で言われると、だいたい正しい気がする。  NPO代表が、静かに確認した。 「運用委託は…年度更新で?」  島田は微笑んだ。 「もちろん。災害は毎年起きなくても、更新は毎年必要です」 会議室の空気が、一段階『儲かる』側へ傾いた。  ここで島田は、最後の釘を打つ。 「成果指標は、数字にしましょう。 利用者数、通知到達率、協賛枠のクリック数、外国語ページ閲覧数。 ——数字は嘘をつきません」

 嘘だ。数字は嘘をつける。 だが「嘘をつきません」と言うと、嘘が正義になる。 島田は嘘を、正義の服に着替えさせるのが上手かった。

プロ翻訳者の正論、会議で骨抜きになる  そこへ『本物』が現れた。 県が連れてきたプロ翻訳者だ。眼鏡。資料。指摘が鋭い。 「避難誘導の翻訳は危険です。 『海へ避難』のような誤訳は、命に関わります。 専門家が監修し、統一した表現が必要です」  正論だ。 正論は刺さる。刺さると痛い。痛いと揉める。 揉めるのは島田の嫌いなこと……ではなく、島田が『利用』する材料だ。

 島田は、正論を抱きしめてから、利用する。 「素晴らしい。まさにその通りです」 翻訳者が少し安心する。  安心した瞬間、島田は次を言う。 「だから先生、お願いがあります。 監修委員会の委員長をやってください」  翻訳者が固まる。 委員長になると責任が生まれる。責任が生まれると現場対応に追われる。追われると反対できない。 政治家は、反対者に『肩書き』を与えて黙らせる。  島田はさらに言った。 「報酬も用意します。正当な対価です。 そして、先生の監修があると、次年度の継続採択が強くなります」  翻訳者は、正論で殴ってきたが、殴る先が消えた。 彼は『善意』で来た。善意は、報酬と肩書きに弱い。 弱いというより、現実に負ける。  役場係長は、胃を押さえながら感動した顔を作った。 「先生…助かります…」 助かる、という言葉は、判子の前兆だ。

成果報告会は、棒グラフの祭りになる  三ヶ月後。 観光防災センターで「多言語観光防災DX成果報告会」が開かれた。 題名が長い。長いほど偉い会になる。偉い会ほど拍手が増える。  壇上には棒グラフが並ぶ。 棒グラフは魔法だ。棒が伸びると、みんな安心する。  観光協会会長がマイクを握った。 「利用者数は前月比120%! 外国語ページ閲覧数は150%! 回遊データも——」  会長は『回遊データ』の意味を知らない。 だが言葉が偉い。偉い言葉は成果になる。

 旅館組合幹部が言う。 「予約が増えた気がします」 『気がする』が出た時点で勝ちだ。 政治は統計より『気がする』に強い。  老舗警備社長が、真顔で言った。 「安全のためです。 …英語でも言えます。セーフティ・フォー・ユーです」  会場が笑った。 笑いは成功の証拠だ。誰も内容を見ていないときほど、笑いは増える。  YouTuberは後ろの席で、渋い顔をしていた。 珍英語ツアーで伸びたのに、町が改善に舵を切ってしまった。叩くネタが消えると、動画は伸びない。 だが島田は彼に気づいて、わざと壇上から言った。 「批判してくれた人がいたから、改善できました」  会場が拍手した。 YouTuberは拍手の中で、完全に『味方』にされてしまった。 敵のままではいられない。敵は拍手に溺れると溶ける。

 NPO代表は会場の隅で、領収書の束を整理していた。 笑顔で。 善人顔で。 帳簿の音は静かだが、確実に鳴る。

鈴はクリック音で鳴る  報告会が終わり、島田はセンターの裏口から出た。 夕方の海風が、看板灯をわずかに揺らす。  役場係長が追いかけてきた。 手には分厚いファイル。更新契約の書類だ。 「先生…来年度も…いけそうです…」  島田は優しく頷いた。 「もちろん。数字が伸びてますから」  係長が言った。 「ところで先生…『クリック』って…そんなに大事なんですか」 島田は笑った。  そして、言葉をゆっくり落とした。演説の声だ。

「クリックは、指一本で鳴る鈴です。 鳴るたびに、誰かがどこかで『困らない』顔をする。 その顔が集まると、次の予算が来る」  係長は分かったふりをした。 分かったふりは、行政の潤滑油だ。

 島田はポケットの紙片を指で折った。 今日の一文が書いてある。 「本日、午後四時に『ここ』で、鈴が一回だけ鳴ります」 午後四時。 ちょうどその頃、誰かがアプリで「協賛:地元レンタカー」をタップする。 カチッ。  その小さな音が、島田にははっきり鈴に聞こえた。 投票箱の底ではない。 通行許可証の朱肉でもない。 スポンサー枠のクリック音で鳴る鈴だ。  島田は海を見て思った。 ——次は、この『言葉』を、派閥に売れる。  多言語化。DX。データ。成功事例。 それは、国会の会議室で一番好まれる土産物だ。 土産物は、群れない男に『群れの入口』を作る。 遠くでセンターの看板灯が揺れた。 希望みたいに。 予算みたいに。 島田幸夫は、その両方に見える笑顔で、車に乗り込んだ。 Copyright © 2026 Kujo Leon. All rights reserved.