リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

地方移住の罠(九条レオン)

地方移住の罠

 防災訓練の話が出たのは、地区LINE(LINEヤフー株式会社が提供するメッセージアプリ)の通知が、すでに家の空気の一部になり始めた頃だった。

 その日の夕方、仁が帰宅して靴を脱いでいると、スマートフォンが短く震えた。画面を見ると、谷野地区連絡のグループに新しい投稿が入っている。送信者は隆夫だった。  今週日曜、午前十時より防災訓練を行います。今回は避難所集合ではなく、安否確認連絡の訓練を中心に行います。各家庭、班ごとの確認にご協力ください。詳細はノート確認お願いします。  文章は事務的だった。必要事項だけが並んでいて、そこに感情は見えない。だからこそ、まずは普通の連絡に見えた。

 仁は居間へ入ってそのままソファに座り、ノート機能を開いた。訓練内容は思っていたより細かかった。開始時刻にグループ投稿で訓練開始を通知し、各家庭は決められた書式で返信すること。返信内容には、家族全員無事、在宅人数、外出者の有無、避難行動の可否、要配慮者の有無を含めること。 一定時間返信がない場合、班長または班担当が個別確認を行うこと。必要に応じて電話連絡あり。

 読んでいるうちに、仁は少しだけ眉を寄せた。防災訓練としては筋が通っている。災害時には人数確認が必要になるだろうし、高齢者や子どものいる家庭の把握が重要なのも分かる。電話よりメッセージの方が一斉に回せるのもその通りだ。  分かる。分かるのだが、書式が細かいことと、「一定時間返信がない場合、個別確認」という文言だけが、読む指先にわずかな重みを残した。

 台所から百合子が「何?」と聞いた。 「日曜、防災訓練だって」 「避難?」 「いや、連絡の訓練。安否確認」  百合子が鍋の火を弱めながら近づいてきた。仁の肩越しに画面を見て、黙ったまま数秒読む。 「細かいね」 「まあ、防災だからな」 「防災だから、で全部通る感じがするのが嫌」  その言い方は静かだった。すぐ否定はせず、でも最初から引っかかっているのが分かる声だった。 「でも、必要は必要だろ」 「必要なのは分かるよ」  百合子は画面の上の方を指さした。 「でも、これって訓練っていうより、返信の作法を覚えさせる感じしない?」  仁はすぐには答えなかった。そこまで言うのは考えすぎではないか、と思いかける一方で、地区LINEに慣れ始めた今なら、その言い方を完全には退けられないとも感じた。

 隆夫はその日の夜、さらにグループで補足を送った。  本番で慌てんよう、普段から慣れとくのが大事です。各家庭、よろしくお願いします。  そのあとすぐ、みゆきが  一回やっておくと安心です😊 とつけた。  どちらも正しいことしか言っていない。正しいことしか言っていないから、息苦しさの理由が余計に掴みにくかった。  正しいことに見えるぶんだけ、息苦しさの理由はまだうまく掴めなかった。       訓練当日の日曜、若草家は谷野の外にいた。

 前日から決めていたわけではない。レナの上履きが少しきつくなっていたので買い替えたいという話があり、ついでに翼のノートやこまごました日用品も足りなくなっていた。平日は仁の帰りが遅く、買い物をゆっくり済ませるには日曜しかない。子どもたちも、最近は地区の空気に気を遣うようになっていたから、たまには少し離れたショッピングセンターまで出た方が気分も変わるだろうという話になった。

 朝、車に乗り込むとき、百合子が「訓練って十時だっけ」と確認した。仁は「うん、でもスマホ見ればすぐ返せるだろ」と答えた。その時点では、本当にその程度の話だと思っていた。 メッセージが来たら書式に沿って返す。それで終わる。外出していても何の問題もないはずだった。

 谷野を離れて車を走らせると、家のまわりにいつも張りついていた何かが少し薄くなる感じがした。道路が広くなり、信号の数が増え、見知らぬ車の中へ自分たちが紛れていく。誰の家の前を通っているかを気にする必要がなく、どこで曲がっても「誰かに見られている」感じが弱い。それだけで、仁は少し気を緩めた。

 ショッピングセンターの駐車場に車を停めると、翼が珍しく自分から口を開いた。 「ここ広い」 「谷野が狭すぎるんだよ」と仁が言うと、翼は少しだけ笑った。  レナは店へ入る前から靴屋の看板に反応している。百合子も、谷野の中にいるときより表情がやわらかかった。疲れていないわけではないが、少なくとも家を出るだけで身構えている顔ではなかった。  店内で上履きを選び、文房具売り場を回り、昼前にフードコートで軽く食事をした。 周りの人の会話はどこかへ流れていき、誰も若草家を知らない。その当たり前のことが、ここでは妙にありがたかった。

 仁は一度、ポケットの中のスマートフォンを気にした。だが、そのときはちょうどレナがジュースをこぼしかけ、百合子が紙ナプキンを取ろうとしていたので、そのまま忘れた。通知は来ているかもしれないし、まだ来ていないかもしれない。どちらにしても、生活の優先順位の中で一度下がっただけだった。

 谷野を離れているあいだだけ、連絡のことは連絡のままでいられた。       異変に気づいたのは、帰りの車に乗り込んでからだった。

 駐車場でエンジンをかける前に、仁は何気なくスマートフォンを見た。画面の上に通知がいくつも重なっている。谷野地区連絡、みゆき、着信、不在着信。数が多い、と最初に思った。次の瞬間、その多さが不自然なものとして胸に落ちた。 「……え」  思わず声が出た。 「どうしたの?」と百合子が聞く。  仁は急いでロックを解除し、グループを開いた。

 訓練開始の通知。  各家庭からの定型返信。  了解のスタンプ。  確認完了の補足。  そして、その流れの中で、若草家だけがぽっかり空いていた。

 その空白が、画面の中でやけに目立った。誰も名指しして責めてはいない。だが、ほとんどの家がきちんと書式に沿って返信している中で、自分たちだけが反応していないという事実が、無言の形でそこに残っている。

 そのあとに並んでいたのは、班の誰かからの個別メッセージだった。  若草さん、訓練始まってます。確認お願いします。  さらにそのあと、みゆきから。  大丈夫ですか? 外出中ですか?  不在着信が一件。  その数分後にまた、  返事ないので心配してます。  さらに別の番号からの着信。

 心配、という言葉が画面に並ぶたび、仁の背中に別の意味の汗がにじんだ。本当に少しは心配したのかもしれない。だが、その件数と速さは、一家庭が数分返信しないだけの重みではなかった。 「そんなに?」

 百合子が隣から画面を見て、低く言った。

 仁は急いで返信文を打とうとした。  家族全員無事。外出中。要配慮者なし。避難可。返信遅れました。  途中まで打って、自分の書き方がこれで合っているのか一瞬迷う。書式通りに揃えるべきか。謝罪を入れるべきか。訓練相手に謝るのも妙なのに、その妙さを考えている余裕がない。  指先が急にぎこちなくなり、送信ボタンを押したあとも、まったく安心できなかった。

 返事を返したのに、遅れたという事実だけはまだこちらを見ていた。        谷野へ戻るころには、車内の空気は行きのときとは別のものになっていた。

 レナは途中で眠ってしまい、翼は窓の外を見たまま黙っている。百合子は前を向いていたが、口数が極端に少なくなっていた。仁自身、何か言い訳めいたことを口にするたびに、自分で余計に情けなくなりそうで黙るしかなかった。

 家の近くまで来ると、いつもの細い道や見慣れ始めた家並みが、また別の息苦しさで迫ってきた。単に帰るのではなく、「遅れて帰る」感じがある。誰かが待っていたわけではないのに、そういう感覚だけが先に立つ。

 玄関前で車を降りると、すぐに声がした。 「若草さん」  向かい側から歩いてきたのは、班の年配の男だった。名前はまだ完全には覚えきれていない。だが顔は何度か見ている。口調はあくまで穏やかだった。 「心配したよ」  その一言で、仁はもうこちらが「心配をかけた側」に置かれていることを悟った。 「すみません、外出してて気づくのが遅れて」  反射的にそう言ってしまった。言いながら、訓練に対してこの謝り方になることの妙さも感じる。だが、相手の穏やかな顔の前では、その妙さをいったん飲み込むしかない。 「何かあったのかと思ってさあ」 「グループ見ても返事ないし」 「訓練だからこそ、ちゃんとしとかんと」 「みんな気にしてたから」  言葉はどれも責めている調子ではない。むしろ気遣いの語彙でできている。 だが、そのすべてが「返事がない状態は望ましくない」「その状態を作ったのは若草家だ」という前提で積み上がっている。

 そこへみゆきも、買い物帰りらしい袋を持って通りかかった。 「あ、よかった」  最初の一声には、本当に少し安堵が混じっているようにも見えた。だがそのあとすぐに、いつもの柔らかい声で続ける。 「何かあったのかと思った。外だったんだね」 「訓練でこれなら、本番のとき困るからさ」 「びっくりしたよ」

 仁は「すみません」ともう一度言った。百合子は横で黙っていた。説明したところで、説明が免除にならないのが分かるからだろう。外出していて気づかなかった。それは事実だ。だが、その事実を告げても、「だから仕方ないですね」で終わる空気ではない。 「次から気をつけて」  最後にそう言われたとき、その言葉は助言というより、静かな警告のように響いた。  気をつけて、という言葉の中に、もう一度遅れたら許さないという形がうっすら見えた。

 その夜、隆夫から改めて電話が来た。

 電話越しの声も、やはり穏やかだった。怒鳴るわけではない。責め立てるわけでもない。むしろ「きちんと話しておこう」という、年長者らしい整った声音だった。 「若草さん、今日は大事ないならよかった」 「すみませんでした」 「いや、責めるつもりで言っとるわけじゃないよ」  そう前置きしてから、隆夫は淡々と続けた。

「でもな、訓練だからこそ意味があるんだ」 「本番ならもっと困る」 「忙しいのは分かるが、こういう時は協力してもらわんと」 「返事ひとつで済む話だから」 「安否が取れんと、周りも動けんからな」  どれも正論だった。仁は、その一つ一つを理屈としては否定できない。災害時の初動が大事なのも、連絡がなければ周囲が動きにくいのも、本当だろう。だから「でも」と切り返す言葉が見つからない。

 ただ、苦しいのはそこではなかった。苦しいのは、「返事ひとつで済む話だから」という言い方の中に、返事をしないという選択肢が最初から存在していないことだった。返信が遅れたことそのものより、返信しない自由がまるごと認められていない感じの方が、よほど息苦しい。 「はい」と答えるたび、仁は自分の声が少しずつ空いていくような気がした。反論できない。反論すると、自分が防災を軽く見ている人間、協力しない人間になる。そういう位置へ簡単に押し込められてしまう。 「今後は、見たらなるべく早くな」

 最後に隆夫がそう言って電話を切ったあと、仁はしばらくスマートフォンを握ったまま動けなかった。  間違ったことは言われていない、そのこと自体がいちばん逃げ場をなくした。  夜遅く、子どもたちが寝る支度をしたあと、若草家の会話はその日の出来事に戻った。  百合子は、洗面所でレナの歯ブラシを片づけてから、居間へ戻ってきたとたんに言った。 「訓練であそこまで来る?」  声は高くなかった。怒鳴っているわけでもない。だが、その低さの中に、かなりはっきりした不快感があった。 「外にいたのはこっちの都合だけど」と仁が言う。「防災だからって言われたら、理屈は分かるんだよ」 「理屈は分かるよ、私も」  百合子は、仁の言葉を途中で遮らずに受けたうえで返した。 「でも、あれ本当に安否確認?」 「返事がない家庭を探すことの方が目的みたいだった」  仁は黙った。

 その沈黙のあいだに、翼が二階から降りてきた。水を飲みに来たのか、コップを持ったまま立ち止まり、テーブルの上のスマートフォンを見た。画面にはまだ昼間の通知の履歴が残っている。 「まだその話してんの」 「してる」と百合子が言う。  翼はコップに水を入れ、一口飲んでから、画面の通知欄を見た。 「これさ」  その一言に、仁も百合子も顔を上げる。 「安否確認じゃなくて、ちゃんと従うかの確認じゃん」  言い終えたあと、翼はそれがどれだけ重い言葉かを自分では深く考えていないような顔をしていた。ただ見えたままを言っただけ、という顔だ。

 仁は返す言葉を探した。  違う、と言うには苦しかった。  そうだ、と認めるには重すぎた。

 翼はさらに言った。 「防災の練習じゃなくて、返事する練習みたい」  その一言で、仁の中にずっと散らばっていた違和感が、はじめて一つの形になった。 ごみ袋の口も、溝さらいの立ち話も、地区LINEのスタンプも、差し入れの容器も、今日の訓練も、全部べつべつのことのように見えて、どこかで同じ方向を向いていた。谷野が求めているのは、安全そのものより、「つながっていることを示し続ける態度」なのかもしれない。

 百合子は静かに息を吐いた。ようやく家の中で、その本質が言葉になったという顔だった。  仁は何も言えなかった。否定したい気持ちはまだ少し残っている。だが、否定するには今日一日の通知の数が多すぎた。電話の口調が穏やかすぎた。謝った自分の反射が、すでに物語りすぎていた。  翼の言葉は短かったが、仁がずっと飲み込んできた違和感の形をしていた。

 その夜更け、家族が寝静まったあとで、仁は一人、居間の暗い明かりの中に座っていた。  スマートフォンを開く。昼間の通知、既読表示、個別メッセージ、不在着信。みゆきの「大丈夫ですか?」。 班の人の「心配してます」。隆夫の「本番ならもっと困る」。 一つ一つの文面だけ抜き出せば、どれももっともらしい。誰も「従え」とは言っていないし、「無視するな」とも書いていない。むしろ表面上は、助け合いと防災と心配の言葉でできている。

 それなのに、全体として並べてみると、それは別の形に見えた。

 災害のための確認というより、反応しない家庭を作らないための訓練。  無事かどうかの確認というより、つながり続けることを証明させる仕組み。  既読はただの表示ではなく、従う姿勢の返事。  仁は、ようやくそこまで考えて、胸の底に沈んでいたものを認めざるを得なかった。

 既読は確認じゃない。  この土地では、服従の返事なのだ。

 そう理解したところで、急に何かが解決するわけではなかった。 むしろ逆で、何が起きているのかが分かったぶんだけ、ここから先の息苦しさがはっきりした。けれど、少なくとももう、ごみのことはごみ、顔出しは顔出し、防災は防災、と別々に考えることはできなかった。

 谷野で求められているのは、安全確認ではない。つながっていることを、絶えず示し続ける態度なのだと、仁はその夜ようやく理解した。 Copyright©2026KujoLeon.Allrightsreserved.