県庁の朝は、乾いている。潮の匂いも、泥の匂いも、香典袋の紙の匂いもない。代わりにあるのは、コピー機の熱と、蛍光灯の白い光と、書類の角が擦れる音だ。音が乾いている場所では、人の怒りも乾いて見える。乾いて見える怒りは、切り捨てやすい。
県土木部の佐々木修一は、机の上に三つの束を並べた。 「観光道路・法面崩落」 「港・護岸損傷」 「過疎集落・橋(仮復旧)」
束の上には、写真と、簡潔な説明文と、被害額の概算と、採択に必要な要件が貼ってある。言葉が少ない。言葉が少ないのは、善意ではなく訓練だ。言葉が多い書類は、責任も多い。
佐々木は指先で、紙の端を揃えた。揃えながら考える。現場は現場で怒る。地元は地元で騒ぐ。だが県庁は県庁で、順番を作らなければならない。順番ができなければ、工事は始まらない。工事が始まらなければ、政治家が騒ぐ。政治家が騒ぐと、また順番を作らなければならない。
結局、順番は終わらない仕事だ。 「佐々木さん、こちら、昨日の視察メモです」 課長補佐の田村啓介(たむら・けいすけ)が、クリップで留めた紙を差し出した。紙の上には、視察の順番が書かれている。 ①観光道路(法面) ②港(護岸) ③橋(仮復旧)
佐々木はその順番を見て、眉を動かさなかった。動かせば政治になる。政治に見えることを、行政は嫌う。 だが、順番は順番だ。誰がどう並べたか。並べた順番が、地元の順番を変える。順番は同じ形で増殖する。 「写真は?」 「整理されています。……伊賀透さんの資料が、そのまま使えます」
田村が言う。「使えます」と言いながら、微妙に口元が硬い。行政が政治の資料を『使える』と言うとき、その裏には二つの意味がある。一つは助かる。もう一つは――政治の責任を、紙の形で行政に持ち込まれた、という意味だ。 佐々木は写真の束を受け取った。最初に目に入るのは、観光道路の崩落写真だ。崩れ方が分かりやすい。バスが通れない、という説明がいらない。写真が説明してしまう。
次に港。泥線。水位。倉庫の中。濡れた漁具。地元の誇り、と書かれていないのに、写真の中で誇りが濡れているのが分かる。
最後に橋。仮復旧の鋼材。川の濁り。立っていた老人の背中――が、写っていない。写真は橋だけを写している。 佐々木は、写真が写していないものを見る訓練を受けていない。だが、政治の匂いは分かる。写っていない老人の背中は、地元の沈黙になる。沈黙は、後で票になる。
「この順で資料を組むのか」 佐々木が呟くと、田村は一拍置いた。 「合理的です。……連休前の観光道路は、生活影響が大きい。港は安全性と産業影響。橋は仮復旧済みで緊急性は下がる、と」 合理的。合理的という言葉は、政治的だ。合理的と言った瞬間に、切り捨てられる側が生まれる。切り捨てられる側は、合理性を知らないふりをする。知らないふりができるのは、痛い目を見た者だけだ。
佐々木は紙の束を並べ替えた。並べ替えたのは、同じ順番だ。最初からそう並んでいるものを、改めて『並べ替えた』と身体に刻む。刻んだ順番は、県庁の順番になる。
「優先順位案、作る」 佐々木が言った。 「はい」 田村が頷く。その頷きは、理解ではない。責任の分担だ。
同じころ、川辺泰蔵の事務所では、空気が湿っていた。雨は止んでいるのに、電話が湿気を作る。電話は鳴るたびに、事務所の空気を濡らす。 伊賀透は、机の上の書類を一枚ずつ整えていた。整えると、まだ自分の手が生きていると確認できる。手が生きていれば、まだ順番を作れる。 「伊賀さん、商工会からです。『神谷さん、昨日港に入ったそうですね』って」
杉田恒一が言う。杉田の声には、噂の速度が乗っている。 「農協からも……『香典返しの件』って」 「漁協は?」 「漁協は……『港が先だって分かった』って、喜んでます」
喜びは、別の誰かの怒りだ。透はそれを知っている。喜んでいる人間の隣で、別の人間が黙っている。その黙りが一番怖い。
透は名簿ファイルを開き、昨日の会館の席順を思い出した。久米山征志が神谷彰彦の肩に置いた手。あの手の感触が、まだ畳に残っている気がする。畳は記憶する。畳は順番を記憶する。
透のスマホが震えた。画面には見慣れない番号。だが、透には分かった。県の番号だ。県は、番号で呼ぶ。後援会は、名前で呼ぶ。 「はい。伊賀です」 『伊賀さんでしょうか。県土木部の田村です。昨日はお世話になりました』 田村啓介。課長補佐。声が丁寧すぎる。丁寧な声は、距離を作る。 「こちらこそ。現場を見ていただけて助かりました」 『ええ。それで……資料、ありがたかったです。今、内部で整理をしていまして』
整理。透の胸の奥が冷える。整理は、切る前段階だ。切るために揃える。揃えるために、名前を呼ぶ。 「何か、追加で必要なものがあれば」 透が言うと、田村は一拍置いた。余計なことを言うか言わないかを測っている。 『視察の順番の件ですが……伊賀さんのルート案、そのまま通しています』 透は言葉を失いかけた。言葉を失うと、相手に余地を与える。余地を与えると、向こうが順番を作る。 「……ありがとうございます」
透は短く返した。感謝は借りになる。借りは鎖になる。だが今は鎖でもいい。鎖がないと、県庁の扉は開かない。 『ただ、優先順位案は『暫定』ですから』 暫定。最も残酷な言葉だ。暫定のまま固定されることが多い。固定された暫定は、正義の顔をする。 「承知しています」 『地元の反応が荒れると……困りますので』 田村の声が少しだけ小さくなった。行政は、政治が荒れるのを嫌う。荒れると責任が生まれる。責任が生まれると、順番が遅れる。 「荒れないように、こちらで調整します」 透がそう言った瞬間、自分の口が勝手に動いたことに気づいた。調整する。つまり、誰かを宥め、誰かを後回しにし、誰かに恥を飲ませる。恥は必ず残る。残った恥は、次の選挙で票を抜く。 電話が切れた。透はスマホを机に置き、深く息を吐いた。
透の資料編集が、県の紙の上で固定されようとしている。固定されれば、地元の弔電や香典返しの順番も固定される。固定された順番は、後援会の血流になる。血流が変われば、後援会は割れる。 透は、宮沢百合子の丸い笑いを思い出した。丸い笑いは、角を削る。角を削るのは整理だ。整理は久米山の言葉だ。
県庁では、佐々木修一が「優先順位(暫定)」の紙を作り始めていた。紙のタイトルは淡々としている。淡々としているほど、内容は人を殺す。 「優先順位(暫定)案」 ・観光道路(法面) ・港(護岸) ・橋(恒久対策は次期)
次期。次期も暫定と同じくらい残酷だ。次期は、来ないことが多い。来ても遅い。遅いことは、地元にとって忘れられることと同義だ。 佐々木は文言を整えた。整えるほど、切り捨てが滑らかになる。滑らかな切り捨ては、反論しにくい。 「佐々木さん、県連のほうから、連絡が」 田村が言った。言い方が硬い。硬い言い方は、政治が入る合図だ。 「県連?」 「久米山さんの秘書課からです。『本日、県庁に寄る』と」
佐々木は一瞬だけ、紙を押さえる指に力を入れた。行政は政治の訪問を歓迎しない。歓迎しないが、拒めない。拒めないものを、行政は淡々と受ける。 「……分かった」
その日の午後、久米山征志が県庁に現れた。久米山は派手に来ない。静かに来る。静かに来るほど、周りが勝手に揺れる。 久米山は佐々木の部屋に入る前に、廊下の職員に軽く会釈し、名札を見ただけで呼び方を選んだ。誰に「さん」を付け、誰に付けないか。県庁でも順番は生きている。
佐々木の部屋に入ると、久米山は椅子に座らなかった。座らないのは、支配者の所作だ。座れば対等になる。立てば上になる。久米山は立ったまま、机の上の紙を見た。 「……暫定、ですか」 久米山は小さく言った。小さく言うほど、言葉は重い。 「はい。暫定案として、内部調整中です」
佐々木が答える。答えは正しい。正しい答えは、政治には効かない。 久米山は紙の順番を見た。観光道路、港、橋。久米山の目が止まったのは、順番そのものではない。順番の根拠欄に小さく書かれた一行だ。 「視察ルート(伊賀案)を踏まえた」 久米山は、そこを指で軽く叩いた。叩き方が軽い。軽い叩き方は、取り返しがつかない印を付ける。 「伊賀さんの資料ですか」 佐々木が答える前に、田村が言ってしまった。 「はい。整理が良かったので、そのまま……」 久米山は頷いた。頷きは肯定ではない。利用の承認だ。 「地元は、荒れますよ」 久米山は淡々と言った。淡々と言うほど、荒れさせる前提に聞こえる。 「荒れないよう、説明します」 佐々木が言う。行政は説明で全てが済むと思っている。済むなら楽だ。 だが地元は説明で動かない。礼で動く。順番で動く。 久米山は微かに笑った。笑いは短い。笑いが短い政治家は、だいたい勝っている。
「説明は、言葉です。地元は順番です」 久米山はそれだけ言って、紙を裏返した。裏返す動作は、次の順番を作る動作だ。 「港を外したら、後援会が割れる。農協を外したら、後援会が割れる。商工会を外しても割れる。――つまり、割れるのは避けられない」 久米山は、割れることを前提に話している。前提にするということは、割れた後の整理を考えているということだ。 佐々木は黙った。行政は割れた後のことを考えない。考えるのは政治家だ。 久米山は最後に、佐々木へ言った。
「暫定の紙は、外に漏らさないように」 それは忠告に聞こえる。だが忠告は、だいたい遅い。遅い忠告は、すでに漏れる計画があるときに出る。
久米山はそのまま出て行った。出て行く速度も順番だ。ゆっくり出れば余韻が残る。余韻が残ると、周りが勝手に決裁する。 そして、漏れた。 漏れるのに必要なのは、紙一枚と、口一つだ。口は紙より軽い。軽い口が、重い順番を作る。
翌朝、透の机の上に、コピーされた一枚が置かれていた。誰が持ってきたのか分からない。分からないのが一番怖い。分からないということは、後援会のどこからでも刺せるということだ。
紙のタイトルは淡々としていた。 「優先順位(暫定)」 その下に、観光道路、港、橋。橋のところに小さく「次期」と書かれている。
透はその紙を見た瞬間、胃が一度だけ沈んだ。沈んだ胃は、後から怒りになる。怒りは、判断を早める。判断を早めると、誤る。誤ると、後援会は割れる。
杉田が駆け込んできた。 「伊賀さん! 農協が……村瀬さんが、今すぐ来いって」 「漁協は?」 「漁協は、喜んでます。商工会は怒ってます。観光協会も……介護連絡会も……」
透は紙を机に伏せた。伏せても、紙は消えない。紙はもう町を走っている。 透のスマホが震えた。今度は大谷剛造。 「伊賀です」 『伊賀』 剛造の声は短い。短い声は命令だ。
『どういうことだ。橋が次期? 過疎が死ぬぞ。――農協がブチ切れてる。商工会もだ。漁協は踊ってる。踊ってるやつは、あとで刺される。分かるな』
透は「はい」とだけ答えた。答える言葉を増やすと、責任が増える。 『紙はどこから漏れた』 「分かりません」 『分からん? 分からんで済むなら秘書はいらん』 剛造の言葉は正しい。だが、分からないときほど秘書は要る。分からないものを『分かったふり』で繋ぐために。
透は低く言った。 「会館、押さえます。村瀬さんに頭を下げます。商工会にも。香典返しの順番も、もう一度組み直します」 『順番をいじるな。いじった痕が残る』 「痕を残さないやり方でやります」 透は言った。言い切った。言い切ると、自分の首が締まる。締まる首は、次の章で切られる。
電話が切れた。 透は立ち上がった。名簿ファイルを鞄に入れ、紙を一枚抜き取った。紙には、地区ごとの顔役が書かれている。顔役の順番。訪ねる順番。頭を下げる順番。弔電の読み順の火を、香典返しの順番で消すための順番だ。 順番で燃えた火は、順番でしか消えない。
農協の事務所は、空気が冷えていた。冷えた空気は怒りの温度だ。怒りは熱いと思われがちだが、地元の怒りは冷たい。冷たい怒りは長持ちする。 村瀬忠夫は、透を見るなり言った。 「伊賀君。どういう順番だ」 透は深く頭を下げた。深く下げるのは媚びではない。深く下げないと、この町では話が始まらない。 「申し訳ありません。暫定案です。確定ではありません」 「暫定がそのまま確定になるのが県だろう」
村瀬は冷たく言った。透は反論できない。反論は言葉だ。村瀬の武器は沈黙だ。沈黙に言葉で勝てない。 「うちが後ろに回されるなら、後援会は――」
村瀬が言いかけて止めた。止めた言葉の続きを、透は知っている。後援会を割る。票を抜く。香典返しを遅らせる。祭礼の顔を出さない。全部、できる。 透は言った。 「順番の説明は、こちらで作ります。先生からではなく、私から」 村瀬が目を細めた。 「伊賀君。君は自分の首を差し出す気か」 透は笑わなかった。笑うと軽くなる。軽い秘書は、後援会に切られる。 「差し出します。順番を守るために」
その言葉を言った瞬間、透は自分が『調整役』の鎖を首にかけたことを理解した。久米山が欲しいのは、次の候補ではなく、整理のための首だ。 その夜、透のスマホが再び震えた。今度は久米山征志だった。番号は表示されない。表示されない番号が、最も権力に近い。 「伊賀です」 『伊賀君。大変だな』 久米山の声は、慰めに聞こえるように作られている。慰めは鎖だ。 「……はい」 『君の資料は助かった。県も動く。だが地元は荒れる。荒れたら、君が整えろ』 整えろ。久米山は命令を命令として言わない。順番として言う。
「承知しました」
『先生は先生だ。君は君だ。君には君の役割がある』
役割。役割という言葉は、後援会の外では便利だ。後援会の中では呪いだ。役割を与えられた者は、役割から逃げられない。
久米山は最後に言った。
『君が残れば、後援会は割れない。……割れ方を『管理』できる』
透は返事をしなかった。返事をすると、自分が管理する側に回る。管理する側は、恨まれる側だ。
電話が切れた。
透は机の上の「優先順位(暫定)」の紙を見た。淡々とした文字が、町を割る。割れた町は、誰かの椅子を作る。椅子は、公認になる。公認は、席順の宣告の次に来る『紙の宣告』だ。
透は名簿ファイルを開いた。ページをめくる指が、少しだけ震えている。震えは恐怖ではない。選択の震えだ。
守るために、誰を切るか。
切る順番を、どう作るか。
窓の外では、また雨が降り始めていた。空は明るいのに、雨だけが落ちる。台風の季節の嫌な癖だ。
透は、雨の筋を見ながら思った。
紙の上の順番は、誰かを救う。 だが――紙の上の順番は、必ず誰かを殺す。
そして、その『誰か』の名前は、名簿に書かれている。 Copyright©2026KujoLeon.Allrightsreserved.
