リベラル文庫(九条レオン)

物語の境界を越えて、新しい世界へ。

 雨は弱まり、空が白くなった。光が出ると、見えるものが増える。見えるものが増えると、言い訳が減る。

 川辺泰蔵の事務所の前に、県の公用車が停まったのは午後一時過ぎだった。ワイパーが最後に一度だけ水を払って止まる。車のドアが開くと、濡れたアスファルトの匂いの中に、整えられたスーツの匂いが混じった。

 伊賀透は玄関の上がり框(かまち)に立ったまま、一礼の角度を測った。深すぎれば媚びになる。浅すぎれば礼を欠く。礼を欠けば後援会が騒ぐ。媚びれば大谷剛造が騒ぐ。どちらが厄介かといえば、どちらも同じだ。違うのは、騒ぎが票になるか、票が消えるかだけだった。

 先頭に立って降りてきたのは、県土木部の幹部――佐々木修一(ささき・しゅういち)だった。背は高くない。だが、歩幅は一定で、靴底が迷わない。役所の人間が一番嫌うのは「迷い」だ。迷いが生まれると責任が生まれる。  佐々木の後ろに、課長補佐らしい男と、技術職の若い女、そして県の危機管理担当が続く。全員が胸に名札を下げている。名札は名乗りではない。組織の鎧だ。 「川辺先生、今日はお時間をいただきまして」 佐々木が丁寧に言った。丁寧すぎる言葉は、距離の表明でもある。 「こちらこそ。わざわざ、足元の悪い中」  川辺泰蔵は笑顔で迎えた。笑顔は泰蔵の武器だ。武器は使われるためにある。

 透はその二歩後ろで、少しだけ頭を下げた。自分は主役ではない。主役のように振る舞うと、後援会が「出しゃばり」と言う。だが、出しゃばらなければ、復旧の順番が決まるのは他人の紙の上だ。 「第一秘書の伊賀透です。本日の行程表と、現地の資料を準備しております」  透が名刺を差し出すと、佐々木は視線を落とすだけで受け取った。受け取る手つきが軽い。政治の名刺を、行政は「礼」として受け取る。だが、そこに「借り」はない。

 透はその軽さを、悪いとは思わなかった。軽さがあるから、こちらは重さを載せられる。

 事務所の会議室に通す。テーブルの上には、資料が三種類置かれていた。透が朝から、紙の厚みと順番で格闘した成果だ。  一つは「被害概要(県提出用)」――数字と図面と写真。二つ目は「現地視察ルート案」――地図と移動時間と、停車位置と、立ち位置まで書いたもの。三つ目は「陳情一覧(整理版)」――誰からの要望か、どの地区か、支援団体はどこか、そして透の頭の中にだけある『順番』のメモ。

 透は佐々木の目線が、資料の表紙をどう撫でるかを見た。役所の幹部は文字より先に紙の厚みを見る。厚みは、政治的圧力の一つの形だからだ。 「本日は、三点をご覧いただきます」  透が淡々と言うと、泰蔵がその横で頷いた。泰蔵は、透の説明を止めない。止めると、透がいなくなる。それを泰蔵は怖がっている。

「第一に、観光道路の法面崩落地点。第二に、港の護岸。第三に、過疎集落の橋――仮復旧の現状です」

 透は、あえて「過疎集落の橋」を三番に入れた。二番にする勇気があるなら、一番にする覚悟が必要だ。覚悟がないなら、三番に入れて、存在を消さない程度に光を当てる。政治は、消さないことで生き延びることがある。

 佐々木が頷く。 「移動時間は?」 「片道二十分、現地での滞在が各十五分です。雨脚が強まる場合は、港を先にして、道路は帰りに回します。高潮の再警戒が出た場合は――」  透が言いかけると、佐々木が小さく手を上げた。 「大丈夫です。現場で判断します」  現場で判断する――行政がよく使う言葉だ。意味は単純で、「責任は現場に落とす」だ。透はそれを飲み込んだ。飲み込まないと、話は進まない。  佐々木の隣の課長補佐が、資料をめくり始める。指が止まったのは、観光道路のページだった。崩れた法面の写真。路肩のガードレールが斜めに落ち、下に濁流の跡が見える。透はその写真を、あえて大きくした。見れば分かる被害は、言葉を減らす。言葉が減ると、反論の余地が減る。

「連休前に間に合わせたい、という話はありますね」  課長補佐が言った。口調は無機質だが、語尾が柔らかい。柔らかさは同情に見えるが、同情は採択ではない。

「観光協会だけではありません。商工会も、介護事業者も、送迎ルートが切れて困っています。過疎集落へ行くにも、回り道が増えて、職員の負担が――」  透がそう言うと、泰蔵が「そうだそうだ」と頷く。頷きは同意だが、責任ではない。  佐々木は手帳に何かを書いた。透はその角度を見て、書いているのが「メモ」ではなく「確認事項」だと直感した。確認事項に入れば、少なくとも机の上では死なない。 「港の護岸は?」 佐々木が次に言った。  透は一拍置いた。ここが今日の勝負だ。港は象徴で、象徴は後援会の血流に直結している。だが、象徴は制度ルートの優先順位には必ずしも直結しない。直結させるには、被害の「数字」がいる。数字が足りないと、象徴は切られる。

「護岸は、高潮で損傷が広範囲です。ただ、現場の人間が言う『怖さ』が、写真では伝わりにくい。だから、本日は現地で見ていただきたい」  透が言うと、佐々木は短く頷いた。頷きが短いときは、判断が早いのではなく、まだ距離があるときだ。

 杉田恒一が会議室のドアをノックして、顔だけ出した。 「伊賀さん、すみません。大谷会長から――」  透は視線だけで杉田を制した。会議室に後援会長の影を入れたら、行政は「政治案件」として身を引く。行政が身を引けば、復旧は遠のく。後援会が騒ぐ前に、まず復旧の順番を作る必要がある。 「後で折り返す。今は入れない」  透の声は小さく、それでも杉田には十分だった。杉田が引っ込むと、泰蔵が微かに眉を動かした。泰蔵は大谷剛造を怖がっている。怖がっているが、逆らえない。  透は泰蔵のその眉の動きに、別の影を重ねた。

久米山征志。  県連会長の顔はここにはいない。だが、いつもいる。泰蔵が何かを決められないとき、久米山の影が机の端に現れる。透は、その影が今日の資料にも落ちているのを知っていた。  透がわざと、資料の一番上に置いた「被害概要(県提出用)」の表紙には、目立たない位置に、県連会長・久米山征志の名前が入っている。弔電の差出人として。礼の名として。政治が行政に触れる「薄い橋」だ。

 礼は、橋だ。橋は、順番だ。 「では、出発しましょうか」

 佐々木が立ち上がった。透は瞬時に順番を作った。誰が先に歩くか。誰が車に先に乗るか。誰が助手席か。誰が後部座席の右か。些細だが、些細だから致命傷になる。

 玄関を出ると、雨は止みかけていた。雲はまだ重い。空の下で、水が残った道路が光っている。光る道路は、嘘を映す。

 車列は三台。先頭に県の公用車。次に泰蔵の車。最後に透と杉田の車。透は運転席ではなく、後部座席に座った。運転は杉田。透は資料の最終チェックをする。杉田の視線は前だが、透の視線は「順番」の内側にある。

 最初の現場――観光道路の法面崩落地点。 バスのタイヤ痕が途中で途切れ、道路脇の木が根ごと傾いていた。法面の土は、濡れたケーキのように崩れ、ガードレールが折れている。下を覗けば、濁流が削った溝が、蛇のようにうねっている。

 佐々木が靴の先で土を軽く蹴る。土の質感を確かめているのではない。ここで見たことを、県庁に持ち帰る「手触り」を作っているのだ。 「仮復旧は可能ですか」  技術職の若い女が、真っ直ぐに言った。透はその真っ直ぐさに好感を持った。真っ直ぐな人間は、紙の上の言い訳に飽きている。 「可能です。ただ、資材が。あと、排水の設計を少し変えないと、次の豪雨でまた崩れます」  透が答えると、女は頷いた。頷く速度が早い。理解が早い人間は、判断も早い。判断が早い人間は、敵にも味方にもなる。

 泰蔵は、現場で手を合わせるような仕草をした。地元の老人がよくやる、慰めの所作。所作は礼だ。礼は後援会に効く。行政には効かない。だが、行政の前で礼を見せると、行政は「政治」を意識し、距離を取る。透は泰蔵の指先を見て、心の中で舌打ちした。

 次は港。 潮の匂いが濃い。高潮の跡が、倉庫の壁に泥の線として残っている。港の防波堤の一部が欠け、波がそこへ牙を立てていた。漁船が数隻、斜めに座礁している。船は生き物のように、黙って傷ついている。

 そこに、大谷剛造がいた。帽子をかぶり、雨具を着て、腕を組んでいる。後援会長は、こういうとき必ず現れる。現れることで、「自分が守っている」という物語を作る。

 透の胃が少しだけ縮む。予感は当たる。剛造は車列を見て、真っ直ぐ泰蔵へ歩いてきた。 「先生」  剛造は頭を下げない。頭を下げるのは弱い者の役目だという顔をしている。 「剛造さん……」  泰蔵が困ったように笑う。笑いが弱い。弱い笑いは、後援会に不安を撒く。

 剛造は佐々木を見て、わざとらしく一礼した。礼を見せる相手を選ぶ。選んだ礼は、武器だ。 「県の佐々木さんで、よろしいですか。大谷剛造です。港の者たちが――いや、ここは港じゃない。うちの町の誇りです」  佐々木は表情を変えずに頷いた。 「現場は確認します。ですが、優先順位は――」 「優先順位ですか」  剛造が言葉を切った。声が潮風より硬い。 「先生の順番と、県の順番が違うと、困るんです」  その一言で、空気が変わった。後援会の順番。県の順番。二つの順番が、同じ場所でぶつかった。

 透は一歩だけ前へ出そうとして、止まった。出れば出しゃばりになる。止まれば流される。秘書はいつも二つの刃の間にいる。 佐々木が静かに言った。 「順番は、被害の程度と、生活の影響で決めます」  剛造が笑った。笑いは短い。

「生活の影響なら、港です。港が止まれば、町の心臓が止まる」  心臓。剛造がその言葉を使うのは珍しかった。心臓は後援会の比喩として透が使う言葉だが、港を心臓と言うことで、剛造は「象徴」を「生活」に見せかけた。

うまい。

 透は剛造を見て、初めて、後援会長がただの怒りの人間ではないと認めた。怒りは演技だ。演技は政治だ。

 泰蔵は助けを求めるように透を見た。透は泰蔵の視線を受け止めず、佐々木の足元の欠けた護岸へ視線を落とした。視線を落とすことで、話を現場へ戻す。話が現場へ戻れば、順番は「紙」から「土」へ移る。土へ移れば、政治は少しだけ、行政の言葉を借りられる。

 透は、持ってきた写真の束の中から、港の倉庫の内部――水が膝まで来た跡の写真をそっと出し、佐々木へ差し出した。差し出し方も順番だ。剛造の前で露骨にやると、剛造の顔を潰す。顔が潰れると後援会が荒れる。荒れると、透は生きられない。

 佐々木は写真を受け取った。指先が少しだけ止まった。止まった瞬間が、透にとっては「勝ち」だった。勝ちは小さい。だが政治の勝ちはいつも小さい。 「……ここまで浸水したのですか」  技術職の女が言った。透は頷く。 「高潮は夜でした。避難は間に合いましたが、倉庫の中は――」 「分かりました。現地の状況は、県庁へ持ち帰ります」 佐々木が言った。持ち帰る。持ち帰ると言った時点で、港は死なない。

 だが、透は知っている。持ち帰るだけでは足りない。持ち帰ったあと、紙の上でどの順番に載せるかで、港はまた殺される。

最後の現場――過疎集落の橋。

 山のほうへ上がると、道が細くなる。家が減る。車が減る。声も減る。雨の音だけが増える。橋は仮復旧されているが、仮設の鋼材がむき出しで、下の川は濁って速い。  橋のたもとに、老人が一人立っていた。誰が呼んだのか分からない。呼ばれても来ない男だ。だが、立っている。立つだけで抗議になる地域では、立つ者が一番強い。

「先生」  老人が泰蔵に向かって言った。声は小さいが、言葉が硬い。 「うちは、後回しですか」  泰蔵が言葉に詰まる。詰まるのは誠実に見えるが、政治では弱さになる。

 透は一歩だけ前へ出た。今度は出る。出なければ、この老人の怒りは後援会の井戸端で膨らむ。膨らんだ怒りは、祭礼で回る。弔電で回る。香典返しのときに回る。そういう怒りは票になる。 「後回しではありません。仮復旧を先に入れています。今日はその現状を、県の皆さんに確認していただくために来ました」  透は老人の目を見て言った。嘘は言っていない。だが真実の全部でもない。  老人は透を見た。透の顔を見て、初めて「秘書」を認識する顔だった。地元は政治家の顔を覚える。秘書の顔は覚えない。覚えられた時点で、その秘書は危険だ。透は自分が危険になりつつあるのを感じた。

 視察が終わり、車列が事務所へ戻る途中、透の携帯が震えた。画面には「久米山征志」と表示されていた。透は心臓の鼓動を一つだけ抑えた。電話が直接来るときは、礼ではない。要求か警告だ。  透は運転する杉田に言った。 「杉田、少し先のコンビニで停めろ」 「え、今ですか」 「今だ」  車が停まる。透は雨の匂いが残る外へ出て、屋根の下に立った。電話に出る前に、深く息を吸う。声の調子を整える。政治家の仕事ではない。秘書の仕事だ。 「はい。伊賀です」 『伊賀君か。今日、県の幹部が来たそうだな』  久米山の声は、弔電の薄墨のように淡々としている。感情がないのではない。感情を紙の裏に隠す技術がある。 「はい。佐々木さんが。現場も三か所、見ていただきました」 『三か所ね。どこを先に見せた』  透の指先が冷たくなる。見せた順番。順番は政治だ。順番を聞くのは、成果を聞くより早い。 「道路の法面、港の護岸、橋です」 『ほう』  久米山が短く言う。短いときは、判断が早いのではない。距離を測っている。 『先生は元気か』 「はい。変わりなく」 『そうか。ところで伊賀君。君は、次の選挙をどう考えている』  透は一瞬、言葉を失いかけた。電話の向こうで久米山は笑っていない。笑っていない声は、笑顔より怖い。

「私は――先生を支えます」  透はそう言った。最適解ではない。だが安全解だ。 『支えるだけか』  久米山が、紙を一枚めくるような音を立てた。透の耳にはそう聞こえた。実際に紙をめくっているのかもしれない。久米山の机の上には、候補者の一覧がある。資金調達力の一覧がある。順番の一覧がある。 『県はな、災害復旧を前面に出す。顔が要る。分かるな』  透は喉の奥が乾くのを感じた。官僚出身の神谷彰彦の顔。復旧の顔。清潔の顔。金が集まる顔。 「……承知しています」 『君は優秀だ。だが、地元は地元だ。後援会が割れたら、誰も勝てない。先生も、神谷も、君もだ』  久米山の言葉は、慰めではなかった。脅しでもなかった。事実だった。事実は、脅しより怖い。 『余計なことはするな。順番を壊すな』  最後の一言は、久米山が大谷剛造と同じ言葉を使ったことを意味していた。

 久米山は、後援会を知っている。後援会がこの土地の心臓だと知っている。だからこそ、後援会を『管理できる顔』を立てたい。神谷彰彦か。川辺泰蔵か。あるいは――透か。  電話が切れた。透はしばらく屋根の下で動けなかった。

 雨は止んでいた。止んでいるのに、足元は濡れている。政治も同じだ。空は明るくても、地面は乾かない。  車に戻ると、杉田が不安そうに透を見た。 「伊賀さん……誰からですか」  透は一拍置いた。言えば、杉田は噂を運ぶ。噂は通貨だ。通貨は勝手に増える。 「久米山さんだ」  杉田の眉が動く。泰蔵の眉と同じ動きだった。久米山の影は、皆の眉を動かす。

 事務所に戻ると、泰蔵が応接室で待っていた。大谷剛造も、すでに来ていた。後援会長は、必ず最後に帳尻を合わせに来る。 「伊賀」  泰蔵が透を名前で呼んだ。頼るときの呼び方だ。 「県の反応はどうだった」  透は泰蔵の顔を見た。泰蔵の顔には、復旧の成果への期待より、後援会が割れないかという恐れが浮いている。  透は答える前に、名簿ファイルを思い出した。紙の厚み。礼の順番。弔電の読み順。香典袋の厚み。祭礼の席順。 そして、久米山の声――「順番を壊すな」。

 透は静かに言った。 「反応は、悪くありません。ただ、順番は……これから紙の上で決まります」  剛造が鼻で笑った。 「紙の上か。紙の上で人は救えん」  透は剛造を見た。剛造の言う通りだ。だが、紙の上で人は殺せる。透はそれを知っている。

 泰蔵が言った。 「伊賀、後援会は――守れるか」  その質問は、復旧の質問ではなかった。政治の質問だった。透にとって、答えは一つしかない。だが、その答えが自分を救うとは限らない。  透は、机の上の資料の束を見た。今日、順番を作った紙。明日、順番を変えるかもしれない紙。 「……守ります」  透は言った。言ってしまった。 言葉は、順番を作る。順番は、誰かを救い、誰かを後回しにする。

 そして、後回しにされた者は、必ず覚えている。 透は、それを知っていた。知っていて、まだ止められなかった。 Copyright©2026KujoLeon.Allrightsreserved.